昭和44年3月6日 朝の御理解
御理解第70節「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」
どういうところが万物の霊長としての値打ちかと。まぁ色々ありましょうけれども、んー、恥を知るということだと思うですね。人間は、他の動物恥ずかしいなどといったようなことは思わないだろうと思いますね。恥いるといったようなことないと思うんですけれども、人間は恥ずかしいということを知っております。
ね、ですから、まぁ、人間はやはり慎みが出来るという事が、人間のまぁ一つの値打ちでもあります。その慎みということを(わしけたり?)いたしますと、いわゆる破廉恥ということになるですね。そういう、また罪を犯しておると人があります。破廉恥罪。
これは人間万物の霊長としての、霊長でありながら霊長としての値打ちをなくしていく、いく人達ですね。そこで私共は何時も、その万物を見て道理に合う信心をせねばならん。万物を見て、道理に合う信心。同じ信心、同じ信心という風に信心を頂いておるということを、恥ずかしく思うてはならないことを恥ずかしいと思うておる人がありますね。
信心しておるということを恥ずかしいと思ったりしておるという、それもやはり、その今まで、えー、あの、日本人のしてきた信心というものが、やはりその、本当の信心をして来てないから、お恥ずかしいということになるのじゃないでしょうかね。只拝んだだけでご利益をもらうと。やはり恥ずかしいですよね。
昨日、一昨日でした。(最近ほどからい?)参って来たそうですけども、私は丁度(あちら?)行っておる留守に、それから又、そうとう遠方から参って来てました。
それに私、それこそ恥ずかしいと思ったんですけども。この若先生が中学校、生、中学校時代の同窓生らしいんです。とにかく、あの大坪君のお父さんは、何でん分かりなさる。それけんあそにけ、いって訪ねてこいて(あんたその?)、そのまぁ友達が紹介したわけです。それで私を訪ねて来たんですけれども。私は留守だったから、又翌日来ておるわけです。
今日はそういう風に、あの私を言われると、私も実は恥ずかしいですね。何でん分かりなさるということ。(笑いながら)
それが、その養子にいかれましてね、新婚旅行から帰って来た。帰って来たところが、そこの家内の妹が、どうした訳か知らんけれども、家出した。それで、御両親が非常に心配される。
それで、無事にしておるでしょうか。どの方角におるでしょうか。教えて頂きたい、とこういう訳なんです。
ほんで私、まぁ申しましたんですよね。まぁやはり中学、中学時代の友達。そりゃ高校出て、いうならば私達よりも(きょうえい?)は、を積んでおる人ですから、話せば分かると思いましてね、色々まぁ話させて頂いた。
例えばね、金光様にお参りしてから、そげなことがもし分かるとするなら、分かるとするならね、とてもそりゃもう、直ぐ誰でん金持ちになるよっち。
今日は競馬に行くけん、どの馬買うたらええかお伺いしていきゃ良い。競輪に行くけんで、私共どう(しようも?)するか知らんけど、その札でも、当たり札をちゃんと教えてもらって、それを買うたらもう瞬く間に、まぁ競輪なら競輪だけでも金持ちになる。どんなに考えったっておかしいですね。
だから、本当にそういう信心をしておるというなら、やっぱ恥ずかしいです。ね、ですから、ただそのことを考えただけでもね、そのことを考えただけでも、あのここではそういうことが分かるのじゃないということが分かるでしょうが、て私が。
ここに沢山の信者がお参りをして来ておるが、ね、そういう例えば株を買うけん、競輪をするから、かい、競馬に行くからというて、お伺い。例えていうなら、人間がどこ、そのおらんごとなったというて、ね、どの方角におるじゃろうかというようなことが分かったり。何処におるというような事がもし分かるならば、なら競輪だって、競馬だって分からなきゃならんじゃないか。
ね、だから、そういうことを信心という、ここで金光様のご信心、そういう信心じゃないけれどもね、けれどもね、えー、例えばあなた達がなら楽しかった。新婚旅行から帰って来たら、家ではそういう難儀が待ち受けておった。
又ご両親としては、それを途端の悩みがそこに出来た。生きておるじゃろうか、何処さえいったじゃろうかと心配しよんなさる。だからそういう心配をしなければならない元ということをね、これが道理だと。
だから、その道理に合わなければいけん。ね、だからそこんところの道理を聞かせてもらってです、あなた方がおすがりして行くならばね、私は心配はいらんて。で、帰ってからご両親によくいうて、椛目の、合楽の先生がね、金光様におすがりをすりゃ心配はいらんて言われた。何処におるかどうか、只一日もはよう、安心が出来るようにおかげを頂くようにお願いをしましょうと。
それは、この天地をまる生かしにしてござる、いわば見通しである、天地の親神様におすがりするのであるから、例えばですよ、何処どこにおるということが、例えば佐世保なら佐世保。長崎なら長崎におるということが分かったから、さぁそこへ向って行った。行った時には、もう一足遅れでもう何処にか、他んとこへいっとったちゅうならどうするねて。
ね、又は、例え自殺したり、なら海に飛び込んだりして自殺したっちゅうならどうするね。分かっただけじゃいくまいが、ね、何処におるか、そりゃ分からんけれどもです、その人の心の中に神様の働きを頂いて、その人が帰ろうと思うとか。手紙を出そうとかという気になるおかげを頂かなければいけん。
そのことならば、早速お願い、それじゃここじゃ皆おかげを受けておるし、又私が安心ち言うたら安心だと。あーそうですかって言うてから、まぁ言うて、まぁいうなら、やや安心した感じ、気持ちで両親にもそう申しますよと、まぁ帰ったんですけれどもね。
これなんかは、例えばもし金光様のご信心がね、そういうようなことであるとするならば、これは道理に合わない信心ですね。ですから例えば皆さんがここでお伺いをするという事、なるほどあります。
そりゃ例えばそういう風に説明しないと、金光様の信心を誤解するから、そういう風に説明いたしました。けれども私共がね、天地の心を心として、ね、神様の心を心として、私共が信心を段々させて頂くと、神様であり、人間であり。人間であり、神様であり。神と人とが一体になる境地がある。そこにはなるほど、ね、いわゆる肉眼の世界では分からない世界がです、ね、分かって来る。
昨日、一昨日もです、(もりべ?)の「高山?」さんところ、丁度、今日の久留米の、じゃないあの、三井教会の大祭から帰ってまいりました。それで皆、客間に皆よられておった。丁度そん時に、その電話が掛かってきたらしいです。三井教会におられる、おる時に電話がかかってきたらしいんです。
で今日電話がかかってまいりましてから、あ(嫁が?)このお産でございましたから、病院に入院したという、連絡がありましたと。ほれで親先生お願いするけん安心して行きなさいというて、まぁその参りましたところにです、ね、その時に私の目の前に、マッチがあった。
私その事をお届けさせて頂いたら、直ぐこのマッチを頂いた。それにこの(いう?)という字が書いてあった。ね(ねがうまちのいう?)という。あ、それでこれは女だなと私が思うやた。こうすけちゃる、うけとる。上から下がっていきよるとなら男に違いはない。けれどもこれは女だなぁと。(基本的?)に女であることも、お名前もその時に頂いておった。
というようにですね、私の心が神様と一体になっておる時。それかというて、それを売り物には決してせん。またそれを売り物にするような信心であったら、神様の願いが立たん。神様の願いというのは氏子信心しておかげを受けてくれよという事にあるのである。
ね、例えば、そんな事を色々分からせて頂いてから、ね、馬券を買うたり、株券を買うたり金がもうかりさえすれば幸せかというような事はない。金が出来たためにかえって不幸せになる。
ね、ですから、信心してという事はいよいよ神様を信ずる心を頂いて、いよいよ信心、いよいよ自分が真心の人にならせて頂いて。いよいよ神心【しんじん】、いわゆる神心【かみごころ】にならせて頂いて、全ての事が有り難い勿体ないという、どのような中にあっても、そういう生活が出来るようなおかげを受けるということが、神様の願いなの。
だから私は神様の願いを取り次がせて頂くのであって、そういうおかげを取り次ぐのじゃない。
そこで、なら皆さんは取り次がれる、ね、取次ぎを願われるならば、結局そこんところを願われなければいけない。ね、そこが私は、万物を見て道理に合う信心と言う事になるのである。
合点がいくでしょうが。一生懸命(拝んだら?)お金もうかった。一生懸命(拝んだ?ら)病気が治った。ね、これではおかしい。これじゃ道理に合わない。一生懸命お参りもさせて頂いた。ね、そして一生懸命み教えを頂いた。み教えを頂いて、こういうような事が分からせて頂いた。これから本当の幸せがおとずれるぞと、こう先が明るうなった。ね、そういう信心生活に入っていけるという事が有り難いのである。
ですからあの、金光様のご信心を、例えば頂いたら、まぁ言うならばですね、昨日も私、皆さんと話した事で(出てきたのが?)、今度小倉に、ご本部へ行きます、その前の、いうようなお話を受けたまわりにいきました。
で、まぁそれ前の、簡単な試験があったという、その中に、教規全文の事が出た。教規全文というのは、こりゃもう少年少女会の者でも知っています、ここでは。
ね、これを読んで聞かせれば、それが又分かれば、はー金光様の信心ちゃこういう信心かという事がはっきり分かる。なら教規全文の事で、他の事は私がヒントを与えておったから、皆試験が出来たけども、教規全文のことだけは知らじゃった。
まぁ(ばかんな?)こて、あんた馬鹿じゃなか(ごて?)私がいう。何十年ここで、何十年ちゅうか、十何年の信心頂いとってから教規全文が知らんてんなんてん。そしたらここへ、4、5人おられた、ここで今(総代家?)のご婦人の方達ばっかりでしたけど、私共も知りませんちこれ、これ。
これはあきれた。教規全文が分かってない。それじゃなるほど金光様の信心ちゃどげな信心かと聞かれても、説明も出来んはずだと。私は改めてびっくりしたんですけれども、本人は、やはりいや、それを話しを聞かなかったり、読んだりしてなかったら知らんのが当たり前だけれども、もう当然知っておらなければならないことが分かっていない。
ね、例えば教規全文なんかに(うたって?)あることを、そのたすか、大変長いことでもないですからです、ね、(ね、今日?)本当に読ませて頂いておると、金光様の信心が、いわゆる堂々とした信心である。人間万物の霊長として、当然させて頂く。またそのようにご縁を頂いて、その信心の稽古をさせて頂いておるということが有り難いということが分かる。
何処にいきよる。はいちょいとそこまでと、例えば金光様にお参りしよるとを隠さんならんような事はない。只おかげもらいばっかりじゃけん、ちょいとそこまでになって来る。恥ずかしい。ね。
まぁ余談ですけれども、教規全文なんかは、教典の、あのこの教典にはありません。けれども小さい教典にあるそうです。小さいのがあるでしょう。祖先賛詞なんか色々のっとると。何でんのっとると。
それに教規全部のってるそうです。一遍どん読ん(どきなさない?)そして、一遍どしじゃない読めば何べんでも何べんでも、読ませて頂きゃ有り難い事が書いてあります。
私共金光様のご信心を頂いておるという事を堂々と、私は人にも伝えられ、そして堂々とこういうおかげが受けられるということ。そのおかげというのも、道理に合ったおかげである。
ただ一生懸命拝んだけんでおかげ頂いたというのじゃない。ね、一心を立てればわが心に神はござるからおかげになるのだというようなおかげもあるけれども、金光様のご信心は何処までも、神の願いを願いとして、ね、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る、その信心をして、信心が分かっていくというところの楽しみ、喜びが、ね、その喜びにおかげは頼まんでも頂けて来るようなおかげを頂こうとする信心である。
人間の、他のいわゆる動物との違い、霊長としての値打ちというのは、私は恥を知ることだと。ね、恥ずかしいということがあることが、ね、それを本当の恥ずかしい事を、は置いて、恥ずかしくない事を恥ずかしいと思うておるような思い違いをしておるような場合もある。
金光様のご信心を、いわば正式に(とでも?)正当な金光様のご信心を一つ身に付けなければ、やはり恥ずかしい。はーもう金光様の信心させてもらうと、おかげ頂きますよと。はーあちらの先生に一遍お伺いしてみなさい。(ぽくぽく?)ですよって。なんてんいうようなことを言うと、合楽の信心までが疑われる。それこそ恥ずかしいことになる。
ね、それもそれながら、それはね、今も申しますように、天地を一目に見てござす神様と一体になるのですから。ね、只、普通に申しますね、いわゆるあの、当人さん当たりが色んなことを、おみくじを上げなさったり、千里眼的なことを言いなさった、それとは全然金光様のご信心は違うのです。それを売り物にしておる信心とは違うのである。
どこまでも和賀心と、わが心がね、いわゆる神様の心とね、この方が祈るところ天地金乃神と一心なりというようなところになってくる時に、これは天地の中には、それこそ深しい極まる、霊妙不可思議な働きがあって、それがまぁ理屈の上で言うと、ね、ラジオとかテレビとかという、あぁいう精密な機械が、精密な機械が、正確に出来上がるとね、東京の、いわば歌舞伎座であっておるお芝居がここでも見えるように、ね、オリンピックの色んな競技がここに座っておっても見えるようなです、ね、そういう機械が精密であるからなのである。
私共の心のこの機械が精密になってくる時にです、それが出来ることはまた、当然なんである。ね、でもそういう、そこはまぁ置いてですたい。もうとにかく金光様のご信心させて頂くということはね、何処までも神様の願いを願いとして、私共その願いを受けて正してもらって、そこから頂けるところのおかげ、そこから頂けるところの心の状態。ね、その心の状態が、有り難い勿体無い。全てのことが有り難いとこう頂けれるところに、人間の幸せがあると説いてあるのが金光教のみ教えなんです。
そこで私は、ここんところをですね、分かるためにもう一遍、御理解3節の一部を読んでみらなければならんと思うですね。初めから読みましょうね。
「天地金乃神とか、天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」ということになるのである。
ね、願う氏子におかげを授け。まずそこにあの天地の親神様の本当に切なる願いというものを感じますですね。願う氏子におかげを授け、と仰るところ。ね、そうしないと、本当の信心に入ってこないんだもの、おかげをやらないと。まず。訳分からんなりにでも。
願う氏子におかげを授け、そして後に理解申して聞かせ、と仰っておる。ね、この世の道理というものは、天地の道理というものは、ね、いわゆる真実、いわゆる心理。本当なこと。ね、天地の道理というのは、天地の法則。天地の道理を説いて聞かせ。お前達の考えておることよりも、もっともっと本当なことがあるのだ、その本当なことを分からせ、理解申して聞かせと仰る。
そして、本当の生き方。本当の幸せを受けてくれよ。そういう本当の生き方が出来た時。本当のおかげを受けた時に、神も助かり氏子も立ち行くということになっておる。いうておられる。
ね、末々まで繁盛いたすこと。氏子ありての神、神ありての氏子と仰っておられる。ね、上下立つように。神も助かり氏子も立ち行く助かりというものをです、ね、神様の願いとしておられる。
そこで、この願いをです、いわゆるそこの願いを私共の願いとしなければならない。ね。そこでならそれを分かりやすくいうと、神様がお喜び頂けるような信心をさせて下されいということになるのである。
ね、神様に喜んで頂くような信心をさせて下さい。そういう願い。そういう願いの元に、お互い信心させて頂くところにです、ね、正々堂々ということになってくる。ただ、神様の願いを願いとせずに、自分の我情我欲をお願いするために参りよるけん、恥ずかしか。そういうことになろうが。
同時にここんところね。そのわけ知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所。そのわけ知らず、日柄方角ばかり見て、無礼いたし前々のめぐり合わせで難を受けおると。
ここにたって来る時に、人間万物の霊長ともあろうものがです、日柄方角を見らなければならないというようなことは恥ずかしい。結婚をするのに、ね、良い日を選ぶというようなことは恥ずかしい。
家を建てるのに、ね、どうも方角が良いの悪いのといったようなことを言う事は、人間万物の霊長として恥ずかしいけれども、そういうことをです、例えば今の、まぁ現在の人がです、いよいよ自分のことになるとです、迷信打破なんかいうておるけれども、いよいよ自分のことになって、自分の娘が嫁るという時には、まず日柄ば見る。自分が家を建てようと思う時には、まず方角を見てもらう。可笑しいじゃないですねか。もうそれこそ恥ずかしい。
さっきから言う、恥ずかしい事を恥ずかしいとも思わず。恥ずかしくない事を恥ずかしいと思うておるという事が一つ分からにゃいかんですね。
ここんところが道理を見て、道理を見らない、道理を知らないからそういう事を。天地の中にある、ね、天地の中に、それこそ指一本でも天地の親神様のお恵みにもれるところはない事が分からにゃいけん。
ね、しかもそういうようなです、恥ずかしい事を平気でやっておる事がです、見当違いな事であるか、そういう事が前々のめぐりで難を受けおるとまでいうておられる。ここのところがね、大事だとこういう。
その恥ずかしい事。(ねぎら?)そのことがです、お互いの難儀の元というのはそれなんですよ、天地に対するご無礼なんです。だから、ここんところを金光教の信心させて頂くならしっかり頂いてです、それを正々堂々とです・・・。
ね、(このくろとし?)ある知った方が亡くなられました。ところが、何ですか、友引という日じゃったけんで、日にちを一日(おそが?)のばさなきゃならない。もう本当にこんな馬鹿らしい話はないです。
(けのは?)昔から言うとる事じゃからというて、それを真、本当に本当の事。それをそうするが当たり前のことのようにしてするということは、人間万物の霊長としては実は恥ずかしい事。
日のお照らしある日に良い悪い日はなと思え、というようなせい、せい、その正しい考え方が、見方があるのにも関わらず、そういう事を平気でする。ほんに恥ずかしい。
日本人の上にだけね、日柄方角があるはずないですよ。ね、それがそうであるならば、シナ人にだって、アメリカ人にだって、なからにゃならんです。アメリカ人には友引なんていうのはなか。
ね、アメリカ人には金神様なんかござらん。可笑しいじゃないですか。それを、いかにもあちらを向いていきゃ金神を向こうて行くからというて、金神よけをしたりそちらの方角に行くとを見合わせたりする。
こういう見当違いな考え方が、前々のめぐりで何を受けおるとまで、ここにはっきりいうてある。ここんところ大体はね、まったく説明するともう金光教の独壇場です、ここは。御理解3節は。ここんところが本当に分かると、いわゆる本当に立派な金光教の信心というのが分かるです。
けども今日は、あーどこまでも御理解70節、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんというところから、引用して御理解3節を借りておるわけですけれどね。
そういう事は道理に合わない事が分かるでしょうが。だから道理に合わない考え方を一掃して、無くして、道理に合うた生き方をまずさせてもらわなければいけない。ね、ですから金光様のご信心をさせて頂くという事は、ね、恥ずかしい事じゃない事が分かるでしょうけれども、金光様の信心頂きよっても、御利益専門で、例えば何かが、お伺い事だけが専門のような信心であったら、やはり、ならちょいとそこまでというて、金光様に参りよることも、よう人に言えないような事になってくる。これでは神様に対しても相すまん。
ね、どうでもここんところをね、一つ皆さんがよくよく分からせて頂いて、まず私共は人間は万物の霊長であることの自覚に立たなきゃいけん。そして、霊長としての値打ちというのは、私共が恥じを知る事だと。
他の動物は恥ずかしいといったような事は知らん。けれども恥ずかしくない事を恥ずかしいと思うたり。恥ずかしい事を平気で、そこがあまりにも沢山な人がそれを思い込んでおるから、それは、もう恥ずかしく、それはもう当たり前なんだ。昔からいうちゃるけんで、というような事で人間の万物の霊長の値打ちを削っておるような感じがする。
万物を見て道理に合う信心をせねばならぬと。道理を、道理に合う信心をどこまでも、進めていかなければならん。ね。同時に、ね、勿論願う氏子におかげを授けと御理解3節にありますように、その願う氏子におかげを授けんところだけを何時までも見守っておるような信心では恥ずかしい。
ね、次に理解申して聞かせ、というところを、本当にそこを分からせてもろうて、自分達の考え方の間違い。ね、思い方の、物の見方、考え方の違いを悟らせてもらって、ね、天地の大道を喝破するとこう申しますね。
間違いの無い道を歩かせて頂いておるということの有り難さというか、それを分からせて頂いた、その喜びというものをです、沢山のそれを知らない人達に伝えて行く、私共は責任を、すら感ずる。
そういう信心を、だからまず私が身に付けなければいけない。それを私は、道理に合う信心をせねばならんとこういうておらます。そこんところを今日は、強調してお話をさせて頂きましたですね。どうぞ。
梶原 佳行